ビルマの竪琴」と残存「三八式歩兵銃

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「三八式歩兵銃を構える少数民族派の若者」

竹山 道夫著「ビルマの竪琴」と市川 昆監督の映画、これらの記憶がなかったら、讀売新聞バンコック支局からの問い合わせに応えなかったかも知れない。
銃砲史学会U先生、陸上自衛隊武器学校M氏からも「ミヤンマーで取材してきた三八銃に関して私に問い合わせが行くかもしれないと」事前に連絡を貰っていた。
午餐会最中や、講義を受けている時間にも国際電話が掛り、記者の気迫に押された。結局、電話で数回、メールで画像のやり取りを数回、費やして昨日(平成25年3月19日)記事になった。案外大きな記事で驚いたし、戦没者を弔う水島上等兵の思いか「彼岸」になった。

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3月19日付讀売新聞朝刊

インパール作戦から70年間近くたち、ミヤンマーの民主化、少数民族との和平そういう背景からこの三八式歩兵銃は取り上げられたようだ。
讀売さんから送ってきた画像ではAK47の7.62×39の弾丸を使用している。
三八式小銃の6.5×51の薬室・銃身では考えられないことだ。しかし尾筒(レシーバー)上には明らかに「三八式」の刻印。そして菊紋は削られている。
インパール作戦に赴いた部隊の中には、武器兵器が足らず、日本国内で学校教練に使われていた、三八式歩兵銃初期型、三十年式銃剣、弾薬蓋などが回収されて装備されたとも聞いている。靖国神社の展示の中にはその初期型小銃の残骸があった。初期の三八式小銃は腔箋(ライフル)6條であったが、後の尖頭弾薬もそのまま使用できた。学校に払い下げる際に菊紋は消した。この菊紋はかなり乱暴に消去されているので、帝国陸軍降伏の際に消されたかもしれない。だが、この三八式小銃は製造番号から初期型、東京工廠製だ。
しかしビルマの山奥で、これだけの改修ができたのか?
戦後、中国共産党軍が日本の九九式長小銃7.7mmを7.62×39にして製造した銃身だけ使用したか?(アリサカさん情報) インパール作戦はビルマの中国とは反対側だったし、戦後侵入した国民政府軍残党が持ち込んだとしてももっと北のほうだった。(下、読売新聞記事内の地図と少数民族村人たち)

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装填が難しいようだ

讀売さんバンコック支局員には、三八式小銃の銃身を外し、薬室を太く短くすることはできるが、ライフルは?恐らく村の鍛冶屋程度でも口径を大きくし2条くらいの施條をすることは可能だっただろう、木部は再製作してあり、南方材で猟銃ストック、昔の日本の弾薬使用はおろか、薬莢(ケース)に再装填することもできない。などを答えて置いた。
また、円筒止(ボルトストッパー)も照尺もないので、その部分の無稼働銃の画像も送った。安全子は明らかに見えないが、後期型に見える。

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完全な形ではないが、「三八式小銃は百年間使用できる、永遠に持つ」と言った南部中将の言葉はある程度証明された。

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見るも無残な状況ではあるが、たしかに。
インパール作戦では帝国日本軍・印度義勇軍は3万人の死者(多くが餓死)、一方英印軍もその半分ほど15000人の死者が出たそうだ。何の価値もない密林と山中で。しかしインドやビルマ独立には大きなプレシャーを与えた。
(画像提供讀売新聞)